神社が大切なわけ

 とある仕事関係の業者の方からこんな質問をされた。「僕ら、神社さんと仕事させてもらって、神社のことを大切に思って、守っていくお手伝いをさせていただいてますけど、そもそも、なんで神社を守らないといけないんでしょうかね。もちろん、守りたいと思ってるんですけど、明確な理由というか、なんというか、、、。」彼の言いたいことはわかった。神社という空間が好きで、自然とそんな空間を守りたいと思っているけど、実際にきちんと守る理由を聞かれたら、口ごもってしまうのであろう。

 そういえば我々神主には、こうあるべきという理想を掲げた文章などはあるが、神さまをお祭りする理由を述べた文章はないように思われる。それは理想像であったり、慣習や行動の規範であって、なんら論理性はないように思う。神社を守っていくのに論理的な理由が必要なのかはわからないが、こんな質問をされたので、いい機会と捉えて少しまとめてみた。

 大前提として幸せになりたいという気持ちがあるとする。そのためには神社という存在が重要な役割を担っているとして、その理由を次の3つの言葉にしてみた。祈り、節目、中今だ。それぞれみてみよう。

 まずは祈りについて考えてみると、こんなことを思い出す。

 私の子供がまだ小さい頃、妖怪ウォッチというアニメに夢中であった。そこに出てくる妖怪の名前や特徴は、どれもすぐに言えるくらいだった。ある時街中を歩いていると、子供が「ジバニャン!」と大きな声で言った。私の目にはどこにもジバニャンという妖怪のキャラクターは見えなかったが、子供が指をさす方向へ戻ってみると、路面店の商品の棚の隅に置いてあったお菓子の袋に、ジバニャンが描かれていた。本当に小さなもので、これを歩きながら見つけたかと思うと、我が子ながらとても感心したのを覚えている。こんなエピソードを話していて思ったのだ。私の子供の心の中はジバニャンであふれていたので、あんなに小さなジバニャンを見つけることができたのだろうと。私の子供の視力が他の子供たちよりも優れていて、どんなに小さなものでも確認できるというような特殊な能力があったのではなく、いつも大好きなジバニャンのことを思い、そこから得る楽しさを求めていたから、小さなきっかけを見逃さなかった。これが私の子供が小さなジバニャンを見つけることができた理由ではないだろうか。

 ということは人間は心の中にあふれているものなら、たとえ現実世界では小さな存在であっても見つけることができるのではないかと思った。だとすれば、常に思い求めているものなら、どんなに小さなきっかけも逃すことなく捕まえて、例えば夢を叶えることができるのではないだろうか。今「思っていること」が、現実に働きかける。今「思っていること」が、未来を作る。この「思っていること」は「祈っていること」に言い換えることができ、「祈り」にはそういう効果があるのではないだろうか。今「祈っていること」が、現実に働きかける。今「祈っていること」が、未来を作る。

 神前に手を合わせて家族の幸せを祈る。そうすると心の中に家族の幸せというものが巣作って、この現実の中にたとえその可能性が小さくても、家族の幸せを見つけ出すことができるのではないのだろうか。このことは現在様々な自己啓発本の中にも見られる。自己啓発本の元祖と言われているナポレオン・ヒル著「思考は現実化する」では、目標を明確な言葉にすることによって、夢は叶うとしている。ぼんやりとしたイメージではなく、目標を明確に、また具体的にすることによって現実の中にそのチャンスを見つけるのだろう。またスティーヴン・R・コヴィー著「7つの習慣」の中でも、終わりを思い描くことから始める第2の習慣として、目標をはっきりと思い描くことの重要性を述べている。つまり心の中を目標でいっぱいにして、現実の中に小さくともその機会を見つける。幸せになるために目標を達成していく中で、祈ることはその始まりであり、もっとも重要なことではないだろうか。そんな私たちの未来を左右する祈りの場所として神社は重要なところである。

 次に節目を考えてみよう。これは例えばお宮参りや七五三など、神社にはいわゆる人生儀礼というものがある。人生における区切りや段落とでも言えるだろう。人生儀礼は、改めて神前に参ることで、思いを新たにしたり、身を引き締める。これはなんでもない時間の連続に、句切れを入れることで、人生に強弱をつけ、物語を与える役割を担っている。

 名前をつけることはそのものを存在させることでもあると説いたのは安倍晴明であるが、連続した時間に区切りをつけて、その前後を分けて、人生の新しい段階に進んだことを認識する人生儀礼は、いわば人生の様々な意味を存在させる。誕生し、赤ちゃんから子供へ、そして成人し厄年を迎え、結婚して子供を産む。それぞれの時期にはそれぞれの性格があり、ひろく人生を見たときにいろんな意味がある。この意味を強調し、人生全体としての調和をはかるために人生儀礼は大きな意味を持っている。

 また、人生という長期的な視野ではなく、一年間という短期的な視野で考えてみても、節目はある。これは年中行事と呼ばれるものだ。正月、節分、祈年祭、夏越大祓、お盆、新嘗祭、年越大祓。現代的なものをあげると、バレンタインデー、ホワイトデー、エイプリルフール、ゴールデンウィーク、ハロウィン、などであろうか。これらの行事を迎えると、一年のどの時期に来たのかを意識する。そしてそれが生活にメリハリをつけたり、昨年のことを思い出したりして物語を生む。

 神社に関する年中行事はそのほとんどが稲作と関係するものだ。2月の祈年祭は種植えの時期に行い、その年の実りを祈願し、11月の新嘗祭は収穫の時期に行い、実りに感謝する。また、7月には半夏生などと言い、夏場に水が枯れないように祈願する祭もある。現代では、大多数の人が農業に従事しているわけではなくなり、その意義も薄れつつあるかもしれないが、我々のルーツであることは変わらず、自然と共に歩む人間の生きる知恵であるとも言える。節目はわれわれの人生に強弱をつけて意味を作る。自分の人生を振り返ったときに、人生が何であったかは、その節目による意味づけによって決まり、まるで人生にタイトルをつけてくれるかのようだ。

 節目は人生に意味を与える。時間を区切ることによって、その前後に違いができるからだ。例えば、結婚式をあげるのは、世界中に見られる人生儀礼であり、神や親族、友人の前で結婚を宣言することは、独身から既婚者へと自分を変える。そして、それまではそれぞれ自分のために生きていたが、結婚後は相手の幸せに全力を尽くすことを誓うのだ。節目は人生に意味を与え、生きる目的すらも変えることもある。その人生儀礼が行われる神社は、象徴的に重要な場所となるのである。

 最後に中今である。中今というのは、過去がありその結果としての「今」と、未来につながっていく出発点としての「今」、「今」ということを考えたとき、この2つの意味がある。過去と未来の真ん中にあるという意味での「中」。そんな意味を込めて「中今」というのである。これは神道に伝わる言葉であり、思想である。

 この世には終わりがある。最後の時が来て、全てが無に帰す。そんなイメージを持っていた私にとって、日本神話に書かれている「天壌無窮の神勅」は新鮮なものだった。

 

天壌無窮の神勅

「天壌葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。」

「豊かで瑞々しいあの国は、わが子孫が君主として治めるべき国土です。わが孫よ、行って治めなさい。さあ、出発しなさい。皇室の繁栄は、天地とともに永遠に続き、窮まることがありません。」

 

 この世は永遠につづくと書いてある。私が漠然と持っていたこの世の終わりは、キリスト教や仏教などのいわゆる「終末論」の影響だろうか。神道では永遠という時間の中で「今」を定義する。始まりは神々の時代、神代から、終わりはなく永遠に続く未来へと繋がっている。過去と未来。その真ん中にあるのが「中今」なのだ。つまり時間の永遠の流れのうちの中心点として存在する今。単なる時間的な現在ではなく、神代を継承している今である。

 このように時間を捉えた時、過去と未来に対してつながりを感じる。ただこの宇宙に一人でいるのではなく、父や母、祖父や祖母などの先祖との命、また次の世代の命と繋がっていくのである。血のつながりとしてだけ考えても、とてもたくさんのつながりを感じるが、これに加えて友人や仕事仲間などとの交流を通してのつながりを考えると、我々は単に一人で生きているのではないことがわかる。様々な関係の中で生きており、影響され影響している。

 昨今人々を分断するような概念が沢山ある。マイノリティーをことさらに取り上げ、権利を主張し、自由と平等を法の中に定義させる。一見正義に見えるこの行為は、本来なら例外的処置をとり、適切に対応すればいい問題を、全てのケースに当てはめようとするあまり社会の中に賛成派と反対派の分断を作る。それで大騒ぎをしているわけだが、私などは、我々は繋がっているわけだから、どちらかという二者択一ではなく、バランスをとって協力し、一つ一つ丁寧に対応するしかないと思っている。

 話は逸れたが、つまり中今とは、現在を過去と未来のつながりの中で捉えるということであり、その考え方は、人と人とのつながりにも適応され、祖先との命、そして他者との交流といったつながりでこの世はできていると捉えることである。

 過去の始まりである神代を偲ぶ神社は、過去とのつながりを想起させ、また我々の次の世代も神代の昔とつながるために神社に手をあわせることで、私たちはみんなつながることができる。その意味で神社は重要な場所となる。

 以上の3つが、神社が重要である理由だ。

祈りが幸せな人生を作り、夢を叶え、節目により人生に意味が与えられ、中今の概念が我々を一つにする。幸せになるためには神社という場所は必ずいる。

 

令和3年6月25日

モーニングページから随筆へ

 随筆。ふと魅力を感じたこの言葉は、私の胸に希望と不安を呼び起こしている。随筆を書くことで何かが始まり、嬉しいことが起こるのではないかという希望と、自分にはそんな力などないということが明確になってしまうのではないかという不安である。

 「随」という字は「ずい、まにまに」などと読み、「従う。思いのまま。」などの意味があるという。これを踏まえて「随筆」という言葉の意味を考えてみると、「筆に従う。思いのままに筆を走らせる。」などと解釈できるであろうか。

 朝起きて、何も考えずに、頭の中にあることを書き記す。これを「モーニングページ」というらしい。とある女性アーティストが提唱した物だ。本当に頭の中にある考えをただ書き記すので、書くことがないときは、「書くことがない」と書く。文字通り頭の中にあることを書き記すのだ。私がこの習慣を始めたのが1年ほど前である。いつもより早く起きて毎日モーニングページを書いた。最初はすぐにやめてしまうだろうと思っていたが、思いのほか楽しく、書かないと気持ちが悪いと感じるようになり、早いもので一年が経ってしまったのである。内容は、その日の大事な予定や価値ある発見などから、本当に誰の役にも立たない、私自身にとってさえもなんの価値もないようなことも書いてきた。ただ頭の中にあることをそのままに書いたのである。

 脳みその排泄行為とも言えそうなこのモーニングページは、私に大きな変化をもたらした。それまで毎晩浴びるように飲んでいたお酒をやめて読書をするようになったのだ。お酒をやめたと言っても全く飲まないわけではない。一人でお酒を飲み、酩酊していつの間にか寝てしまうというような、怠惰な生活をやめたということだ。半ばアルコール中毒ではないかと思っていたほどに、飲まずにはいられなかった。そんな状態から飲まずに本を読むようになったというのだから驚きである。一体何がどう作用したのかはわからないが、実際にお酒をやめて、今はこうして随筆を書いている。お酒を飲まなくなって体調も良くなり、仕事もはかどるようになった。モーニングページを始めたことによって、私の生活はすこぶる良くなったのである。お酒をやめたことと毎日モーニングページを書き続けたことに因果関係があるかは証明しようもないが、私はそう思っている。

 私にとってそんな効用があったモーニングページは、ただ「頭の中にあるものを書き記す」こと。その意味からいって、筆のまにまに、筆に従ってものを書き記してゆく随筆と同じと言ってもいいだろう。

 しかしこの二つは全く同じものではなさそうだ。随筆とモーニングページとはいったい何が違うのか。「随筆を書く」とインターネットで検索してみると、その答えらしきものにぶつかった。便利な時代である。その答えは読者の有無だ。随筆は思いのままに身近な事柄について書き記すとあるが、そこには起承転結や心の動きを書き留めることなどの決まりがあるようだ。確かに私が読んできた随筆には、どれも結論めいたことが書いてあったし、読んでいて面白かった。一方、私が毎朝書いているモーニングページは、頭の中にあることをつながりや時系列も考えずに書き出す。日記と言われるとても個人的な文章であっても脈略のある文章になるが、私のモーニングページはそうではない。支離滅裂である。例えば、私が愛用しているKindleの調子がおかしい、と書いた後に、もしかしたら宮司さんはお休みされるかもしれない、と急に仕事の話になったりしている。随筆は、思いのままといえども一定のルールに従っており、モーニングページにはそれがない。その差がどこから生まれるかといえば、読者がいるかいないか、読者を想定して書かれているかということだろう。

 今、私は随筆に心を惹かれている。誰にも読まれないモーニングページよりも強く、読者のいる随筆に惹かれている。理由はおそらく2つだろう。自分のことなのに、「おそらく」というのはおかしな感じがするが、概して自分のことはわからないものである。1つ目は、なんの脈絡のないモーニングページの中に、うっすらとした一本の線のようなものが見えてきたことだ。頭の中のことを順番やつながりも考えずに書いてきたが、その中にある体系的な考えの萌芽、小さな芽、うっすらとした線が見えてきたような気がするからだ。なにぶんまだ薄い線なのではっきりとは見えないが、とにかく何かあるのだ。それを太くてしっかりとした線にしたくなったので、私はある一定の筋道のある随筆への興味を抱いたのである。2つ目は、その考えは誰かに語りかけることによって完成するのではないかという憶測だ。自分一人で思索をするのではなく、他者との対話によって完成するのではないかと感じている。古くはソクラテスが、執筆ではなく、対話することで哲学を生み出したように、私の考えも他者との対話によって体系化できるのではないだろうか。随筆は執筆であり対話ではないが、モーニングページという視点から見ると対話の方へ一歩進んだと言える。とにかく自分の中の体系的な考えの萌芽とそれを完成させるための触媒である他者を求めて、私は随筆を書くのである。

 ところで私の仕事は神主である。神社にいて毎日神に「祈り」を捧げる。「祈り」とは意(い)を宣る(のる)。「意」とは、意思や気持ち、願いのこと。「宣る」とは、宣言する。単に口に出して言うのではなく、覚悟をもって口にすること。他に様々ないわれがあるかもしれないが、このような解釈もある。気持ちを言葉にすることは、筆のまにまに走らせる随筆であったり、モーニングページと通ずるものがあるだろう。頭の中にぼんやりとある、漠然とした思いや願いではなく、言語にしてはっきりさせた、「これ」であって「あれ」ではない、明確なもの。その「意」を、覚悟を持って宣言する。それが祈りなのである。自己啓発書の多くに、目的をはっきりさせ言語化すると、現実に夢が叶うなどということがよく書かれているが、この「祈る」という行為とよく似ていると感じる。私はこの「祈る」という行為が仕事である。

 モーニングページ、随筆、祈り、そこには言語化が共通している。そして、今私はその言語化された考えや思いをだれかと共有したり、交換したりしたいと考えている。私は習慣的に本を読んでいるが、本を読むということも言語化されたものの共有である。本を読み、誰かの言語化をいただく。その言葉たちに影響を受け、また自分の言葉を記し、行動する。言葉は人から人へ考えや思いを運び、人を動かして行く。

 神社に祈祷を受けに来られる方は、自分で祈るのではなく、他者である神主に祈らせるのである。神主は特定の作法によって神に祈る。その祈りの姿や言葉を参拝者は見聞きする。そして願いが神に届けられたと感じるのである。芸術作品に共感し人生を変えるといったことがよく聞かれるが、この「人に祈らせる行為」にも、芸術作品に共感するのと同じような側面があるのではないだろうか。真摯に参拝者の願いを祈る神主を見て、共感し、その思いを強くする。その経験が人に癒しを与え、神に祈りが届いたと感じさせるのかもしれない。このことはスポーツを観戦するときにも当てはまる。例えばボクシングの試合を見て思わず「行け!」と叫んでしまったり、感情移入をして勝利を喜び、まるで自分が世界一になったような気分になる。人は見聞きすることによって共感し心を動かすのだろう。

 神主の言葉は音となり神と参拝者の元へ届く。言語がある響きをもって発せられた時に、心に届き人の行動を変える。ここであえて言葉を「音」と書いたのは、楽器の音などに対しても、人が感動や共感し心を動かすこととの、共通点を感じたからだ。神主にもよるが、祝詞の言葉ははっきりと言葉として聞こえないこともある。古代の言葉や発音で発せられたものは、一般には理解できない。しかし、参拝者が心を動かすのはなぜか。もしかすると、祝詞は楽器の音色のように音として人の心に届き、心を動かすのかもしれない。このように考えたとき、祈祷は音楽のような芸術表現の一つとも言えるかもしれない。神主による表現を参拝者は鑑賞し心を動かす。それをまた神も楽しんでおられるのかもしれない。

 頭の中にあるものを書き出したモーニングページ、それらに筋をつけて随筆となり、他者と対話したりすることによって考えは成熟し完成していく。そしてまた、声に出すことにより、他者の心へと届き、影響を与える。さらに神に捧げる祈りともなる。ふとした独り言のようなモーニングページが、芸術になり、そして宗教になる。少し大げさだが、このように考えた。そして思いついたのは、この事は「お茶を飲む」という俗事を同じように芸術、宗教にまで高めたものである茶道と、アナロジーになる可能性を秘めてはいないだろうか。欧米に茶道を広めた明治時代の思想家、岡倉天心は、その著書「茶の本」の中で茶道をつぎのように言い表している。「茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、(中略)茶道の要義は『不完全なもの』を崇拝するにある。」独り言のようなモーニングページという俗事の「不完全なもの」が、どんどん洗練されて芸術や宗教になっていく。そんなふうになればいいと、望みを高く持った。不安はぬぐえないが、とにかく進んでみる。言葉にまつわるものが筆から流れ出た。

 

令和3年5月25日