モーニングページから随筆へ

 随筆。ふと魅力を感じたこの言葉は、私の胸に希望と不安を呼び起こしている。随筆を書くことで何かが始まり、嬉しいことが起こるのではないかという希望と、自分にはそんな力などないということが明確になってしまうのではないかという不安である。

 「随」という字は「ずい、まにまに」などと読み、「従う。思いのまま。」などの意味があるという。これを踏まえて「随筆」という言葉の意味を考えてみると、「筆に従う。思いのままに筆を走らせる。」などと解釈できるであろうか。

 朝起きて、何も考えずに、頭の中にあることを書き記す。これを「モーニングページ」というらしい。とある女性アーティストが提唱した物だ。本当に頭の中にある考えをただ書き記すので、書くことがないときは、「書くことがない」と書く。文字通り頭の中にあることを書き記すのだ。私がこの習慣を始めたのが1年ほど前である。いつもより早く起きて毎日モーニングページを書いた。最初はすぐにやめてしまうだろうと思っていたが、思いのほか楽しく、書かないと気持ちが悪いと感じるようになり、早いもので一年が経ってしまったのである。内容は、その日の大事な予定や価値ある発見などから、本当に誰の役にも立たない、私自身にとってさえもなんの価値もないようなことも書いてきた。ただ頭の中にあることをそのままに書いたのである。

 脳みその排泄行為とも言えそうなこのモーニングページは、私に大きな変化をもたらした。それまで毎晩浴びるように飲んでいたお酒をやめて読書をするようになったのだ。お酒をやめたと言っても全く飲まないわけではない。一人でお酒を飲み、酩酊していつの間にか寝てしまうというような、怠惰な生活をやめたということだ。半ばアルコール中毒ではないかと思っていたほどに、飲まずにはいられなかった。そんな状態から飲まずに本を読むようになったというのだから驚きである。一体何がどう作用したのかはわからないが、実際にお酒をやめて、今はこうして随筆を書いている。お酒を飲まなくなって体調も良くなり、仕事もはかどるようになった。モーニングページを始めたことによって、私の生活はすこぶる良くなったのである。お酒をやめたことと毎日モーニングページを書き続けたことに因果関係があるかは証明しようもないが、私はそう思っている。

 私にとってそんな効用があったモーニングページは、ただ「頭の中にあるものを書き記す」こと。その意味からいって、筆のまにまに、筆に従ってものを書き記してゆく随筆と同じと言ってもいいだろう。

 しかしこの二つは全く同じものではなさそうだ。随筆とモーニングページとはいったい何が違うのか。「随筆を書く」とインターネットで検索してみると、その答えらしきものにぶつかった。便利な時代である。その答えは読者の有無だ。随筆は思いのままに身近な事柄について書き記すとあるが、そこには起承転結や心の動きを書き留めることなどの決まりがあるようだ。確かに私が読んできた随筆には、どれも結論めいたことが書いてあったし、読んでいて面白かった。一方、私が毎朝書いているモーニングページは、頭の中にあることをつながりや時系列も考えずに書き出す。日記と言われるとても個人的な文章であっても脈略のある文章になるが、私のモーニングページはそうではない。支離滅裂である。例えば、私が愛用しているKindleの調子がおかしい、と書いた後に、もしかしたら宮司さんはお休みされるかもしれない、と急に仕事の話になったりしている。随筆は、思いのままといえども一定のルールに従っており、モーニングページにはそれがない。その差がどこから生まれるかといえば、読者がいるかいないか、読者を想定して書かれているかということだろう。

 今、私は随筆に心を惹かれている。誰にも読まれないモーニングページよりも強く、読者のいる随筆に惹かれている。理由はおそらく2つだろう。自分のことなのに、「おそらく」というのはおかしな感じがするが、概して自分のことはわからないものである。1つ目は、なんの脈絡のないモーニングページの中に、うっすらとした一本の線のようなものが見えてきたことだ。頭の中のことを順番やつながりも考えずに書いてきたが、その中にある体系的な考えの萌芽、小さな芽、うっすらとした線が見えてきたような気がするからだ。なにぶんまだ薄い線なのではっきりとは見えないが、とにかく何かあるのだ。それを太くてしっかりとした線にしたくなったので、私はある一定の筋道のある随筆への興味を抱いたのである。2つ目は、その考えは誰かに語りかけることによって完成するのではないかという憶測だ。自分一人で思索をするのではなく、他者との対話によって完成するのではないかと感じている。古くはソクラテスが、執筆ではなく、対話することで哲学を生み出したように、私の考えも他者との対話によって体系化できるのではないだろうか。随筆は執筆であり対話ではないが、モーニングページという視点から見ると対話の方へ一歩進んだと言える。とにかく自分の中の体系的な考えの萌芽とそれを完成させるための触媒である他者を求めて、私は随筆を書くのである。

 ところで私の仕事は神主である。神社にいて毎日神に「祈り」を捧げる。「祈り」とは意(い)を宣る(のる)。「意」とは、意思や気持ち、願いのこと。「宣る」とは、宣言する。単に口に出して言うのではなく、覚悟をもって口にすること。他に様々ないわれがあるかもしれないが、このような解釈もある。気持ちを言葉にすることは、筆のまにまに走らせる随筆であったり、モーニングページと通ずるものがあるだろう。頭の中にぼんやりとある、漠然とした思いや願いではなく、言語にしてはっきりさせた、「これ」であって「あれ」ではない、明確なもの。その「意」を、覚悟を持って宣言する。それが祈りなのである。自己啓発書の多くに、目的をはっきりさせ言語化すると、現実に夢が叶うなどということがよく書かれているが、この「祈る」という行為とよく似ていると感じる。私はこの「祈る」という行為が仕事である。

 モーニングページ、随筆、祈り、そこには言語化が共通している。そして、今私はその言語化された考えや思いをだれかと共有したり、交換したりしたいと考えている。私は習慣的に本を読んでいるが、本を読むということも言語化されたものの共有である。本を読み、誰かの言語化をいただく。その言葉たちに影響を受け、また自分の言葉を記し、行動する。言葉は人から人へ考えや思いを運び、人を動かして行く。

 神社に祈祷を受けに来られる方は、自分で祈るのではなく、他者である神主に祈らせるのである。神主は特定の作法によって神に祈る。その祈りの姿や言葉を参拝者は見聞きする。そして願いが神に届けられたと感じるのである。芸術作品に共感し人生を変えるといったことがよく聞かれるが、この「人に祈らせる行為」にも、芸術作品に共感するのと同じような側面があるのではないだろうか。真摯に参拝者の願いを祈る神主を見て、共感し、その思いを強くする。その経験が人に癒しを与え、神に祈りが届いたと感じさせるのかもしれない。このことはスポーツを観戦するときにも当てはまる。例えばボクシングの試合を見て思わず「行け!」と叫んでしまったり、感情移入をして勝利を喜び、まるで自分が世界一になったような気分になる。人は見聞きすることによって共感し心を動かすのだろう。

 神主の言葉は音となり神と参拝者の元へ届く。言語がある響きをもって発せられた時に、心に届き人の行動を変える。ここであえて言葉を「音」と書いたのは、楽器の音などに対しても、人が感動や共感し心を動かすこととの、共通点を感じたからだ。神主にもよるが、祝詞の言葉ははっきりと言葉として聞こえないこともある。古代の言葉や発音で発せられたものは、一般には理解できない。しかし、参拝者が心を動かすのはなぜか。もしかすると、祝詞は楽器の音色のように音として人の心に届き、心を動かすのかもしれない。このように考えたとき、祈祷は音楽のような芸術表現の一つとも言えるかもしれない。神主による表現を参拝者は鑑賞し心を動かす。それをまた神も楽しんでおられるのかもしれない。

 頭の中にあるものを書き出したモーニングページ、それらに筋をつけて随筆となり、他者と対話したりすることによって考えは成熟し完成していく。そしてまた、声に出すことにより、他者の心へと届き、影響を与える。さらに神に捧げる祈りともなる。ふとした独り言のようなモーニングページが、芸術になり、そして宗教になる。少し大げさだが、このように考えた。そして思いついたのは、この事は「お茶を飲む」という俗事を同じように芸術、宗教にまで高めたものである茶道と、アナロジーになる可能性を秘めてはいないだろうか。欧米に茶道を広めた明治時代の思想家、岡倉天心は、その著書「茶の本」の中で茶道をつぎのように言い表している。「茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、(中略)茶道の要義は『不完全なもの』を崇拝するにある。」独り言のようなモーニングページという俗事の「不完全なもの」が、どんどん洗練されて芸術や宗教になっていく。そんなふうになればいいと、望みを高く持った。不安はぬぐえないが、とにかく進んでみる。言葉にまつわるものが筆から流れ出た。

 

令和3年5月25日